|
ZEROではすでにお馴染み、LIGHTNING HEADことGLYN 'BIGGA' BUSHのアルバム『BIGGABUSH
FREE』発売記念のロング・インタビューです。彼はこの後、05年頭に来日し、ZEROのイベント『(0)117』でも最高のDJを披露してくれました。
彼の関連作品や限定販売作品も含め、ZEROではBIGGABUSH作品を多数取り揃えております。是非、聴いてみてください。
■interview &
text by E-JIMA (DISC SHOP ZERO)

「音楽は僕を世界中の人々に触れされてくれるし、
音楽で人々をハッピーにできるかもしれない」
音楽遍歴
■まずはあなたの音楽遍歴について教えてください。

レコードを買うようになったのは70年代の初め頃だったね。最初のLPはLED ZEPPELIN『2』とKING CRIMSON『IN THE COURT OF THE CRIMSON KING』だった。そのときは、ドラムをやりたくてたまらなかったから(ギターはもう弾いていたし)、そのレコードに合わせて叩いてたよ。クッションや新聞を、ママの編み棒を使ってね。

それから“プログレ”にハマっていった――ELP、YES、GENESIS(PETER GABRIELが辞める前まで。それ以降は嫌い)、GONG、HATFIELD AND
THE NORTH。僕のオールタイム・フェイヴァリットのひとつはEGGの『THE POLITE FORCE』。風変わりなオルガンとベースとドラムというコンボで、変拍子だったり歪んだリフが特徴のバンド。それから曲づくりのアイデアを考えるようになって、オープン・リールのレコーダーで変なものを録り始まったんだ。レコーダーの消去ヘッドをふさいで、重ね録りできるようにしたんだ。それで自分のクレイジーなラジオ・ショウを作ったりして遊んだよ。13歳くらいだったね。

それから2、3年して、初めてのグループを組んだ。それから2、3年して、初めてのグループを組んだ。ファンタジー作家MICHAEL MOORCOCKの物語の登場人物から取ってJHEREK
CARNELIANという名前のバンド。これは16〜17の頃、学校でやってた。全曲インストで、ギター2本と、ベースとドラム。音的にはかなり未熟ではあったけれど、ちょっと叙事的なかんじだった。
まだブラック・ミュージックには出会っていなかった。何度かライヴを重ねてメンバーがチェンジして、バンド名も“JHEREK”が取れた。音楽的にも固まって来て、素晴らしいドラマーが加入して全員がFRANK ZAPPAを聴いていたよ。ZAPPAと並んでCAPTAIN BEEFHEARTも僕に大きな影響を与えてくれたね。

その後ちょうど学校を卒業する頃に、パンクが流行りだした。学校を卒業してしまったから、ちょっと乗り遅れてしまったところもあったけど、PERE UBUやXTCとか、後追いのバンドに興味を持ち始めた。2、3枚しか出していないようなバンドの7インチとかね。それと、SCRITTI POLITTI――彼らの初期の作品は荒っぽくてレゲエの影響を強く受けていていたんだ、作品としての深みには欠けていたけどね。それで、僕は髪の毛を剃って、ジャンク屋でギターを買って、初心者のベーシストと、ドラマーとでDEGOATEESという名前のバンドをはじめたんだ。音はかなりノイジーで、短くてトンガった曲をやってたよ。タイトルは「THE
SMELL OF SEX」とか、「SURREAL ESTATE」、「SWEET POTATOES WARBLING」みたいな感じ。

時は経って音楽の嗜好も変わり、80年代初期にはTHE COPYという名前で、実験的な音のグループを始めた。たいていの人には理解しがたい音楽だったと思う。その後ドラマーを入れて、ファンキーにして理解しやすい音にしようと試みたけれど、それはまだ「ホワイト」だった。ソウルに欠けていて、本当のファンクではなかったんだね。結局、僕らは白人ミュージシャンだった。でもファンクや正真正銘のブラック・スタイルを身に付けることができれば白人にだってできるものと思っている。ある意味、それがずっと僕の中でのゴールだった。そして、改めてブラック・ミュージックへとのめり込んでいった。これはおそらく70年代後期のレゲエから始まった。POHN PEELでダブを聴き、ニューウェイヴのライヴ会場で、バンド間にDJがかける曲を聴いていた。レゲエとダブは僕を魅了していった。とりわけそのリズム。それに音楽自体がコミカルで笑えた。そこには自分のユーモアと同じ感覚のものがあると思った。常に笑える音楽が好きだった――BEEFHEARTみたいに狂っていて、ZAPPAみたいにプレイすることが不可能で、ヨーロッパやアメリカのポップスとも奇妙な関係がある。

80年代中頃までに、ラテン音楽にも目覚めた。特にMACITO
AND HIS SALSA BIG BANDはずっと好きなバンドだ。DUKE ELLINGTONも――『FAR EAST SUITE』や『LATIN
AMERICAN SUITE』が好き。その当時の影響は大きいよ。BIG MOMENTSという名の11人編成のバンドをやっていて、ビッグ・バンド・スタイルの要素を取り入れ、僕とPK
CHOWN(「MICHAELANGELO」で共作)がリード・ヴォーカルをとった。僕らはズート・スーツを着て、ホーン・セクションを導いてはジャンプしていた。僕らはきっとビックになると思っていたんだ。でも実際は、アプローチしたどのレーベルからも理解されなかったよ。いつものことだけれど、それは極端に左寄りだった。

その当時は自分でレコードを出すということも簡単ではなかった。夢は常に、ISLANDのようなメジャー・レーベルと契約をすることだった。ISLANDには僕の好きなバンドが沢山いたからね。でも彼らにしてみれば、僕らは異常すぎたのかも。80年代終わりにかけて、早すぎたブリット・ポップというかんじのBOATYMANというバンドでギターを弾いていた。初めて彼らの音を聞いた時、THE
BEATLESの宇宙人ヴァージョンかと思うような恐ろしく高い声のヴォーカルとギターとベース。ドラムはなし。僕は彼らの曲が大好きだったし、一緒に演奏するのも、レコード契約を取ろうとするのも好きだったが、88年に解散した。

89年には大きな人生の転機が訪れる――レイヴに行って“E”とアシッド・ハウスの両方を発見したんだ。その直後にアタリとカシオのサンプラーを手に入れ、ダンス・トラックを自分の手で作った。それは“DJ
DICK”ことRICHARD WHITTINGHAMとチームを組んだときのことで、ORIGINAL ROCKERS、後のROCKERS HI-FIを結成したんだ。
ROCKERS HI-FI
■RICHARDとはどんな風に知り合って、どうしてORIGINAL
ROCKERSを始めたの?

彼はバーミンガムでイベントの企画をやっていたから、パーティやDJセッションで彼のことは知っていたし、彼のDJパートナーのNICKはBIG
MOMENTSでサックスも担当していた。RICHARDは元々大工だったから、ある日、僕の家のドアに鍵を付けてくれることになってやってきたときに、音楽シーンについて語り合い、すぐに意気投合した。彼はその頃、DJしつつもSOMMERVILLEというバンドのマネージメントもしていた。彼はよく僕に曲を聴かせにやってくるようになって、その後一緒に曲を書いてみようということになった。それが「BREATHLESS」としてCAKEレーベルからの初シングルとなった。それが大きくなって、93年には僕の夢のレーベル、ISLANDと契約できることになった。でもその夢もあっという間に終わってしまったのは残念だけど。
■ROCKERS HI-FIは分担制? それともふたりとも似たような立場で関わっていたの?

僕らの作業パターンは、DICK(RICHARD)が面白そうなブレイクやサンプルを探して、レコードを調べてノイズやアイデアを生み出す。僕はサウンドのプログラミングや、彼が見つけてきたものに色々と加えてみたり、シンセやドラム・マシンのプログラミングをして、それをまとめていた。稀に何のアイデアもないまま作業したものを拡げていくこともした。そのうちに、僕はサウンド・エンジニアの役割をするようになった。ベース・ラインとメロディ部分についてはお互いに少しづつ手を加えた。そしてふたりでミキサー前に座る準備ができると、DATにミックス・ダウンする間もお互いがお互いの仕事をする。エコー・マシーンのつまみをちょっといじったり、トラックのミュートをかけたり外したり。今となっては簡単に自動化しているものばかりだけどね。
■ROCKERS HI-FIを辞めた理由は?

ROCKERS HI-FIを辞めたというワケではない。もう続けないと決めたんだ。だからもう存在していない。RICHARDと僕は、ふたりのどちらかが続けたくないと思ったらバンドを続けない、ということを決めていたんだ。僕が続けたくないと思った理由は、バーミンガムから遠く離れた田舎へ引っ越したために、バーミンガムまで作業する為に通うことが難しくなったから。それとまた違った自分の企画をはじめたいとも思っていた。僕はミュージシャンなのに、そのことを忘れて、何年もダンス・プロデューサー並みにプログラミングの方に傾き過ぎてしまっていたので、自分の音楽性に戻りたかったんだ。
ROCKERS HI-FI以降〜ソロへ
■その後は? DJ、トラック制作? その理由は? どこが魅力だった?

ROCKERS HI-FIを辞めたというワケではない。もう続けないと決めたんだ。だからしばらく曲作りをしていたけれど、自分のやりたいことをやっている限り僕は自由で、いい気分だった。LUNDALANDの「CHARLAMANE」やENNIO
MORRICONEなど、リミックスをいくつかこなした。その後、DANIEL
BEST(BEST SEVEN)からEメールが届き、ラガ/ダンスホールの7インチを出さないか?と言われた。それが「ME & ME PRINCESS」になった。99年のことだね。DJはそれほどしていなかったけれど、リリースが増えるにしたがってオファーを受けるようになって、そこから拡がっていった。実際のところ、数年前まではDJとしての自信がなかった。DJするたびに学んでいるよ。
■LIGHTNING HEADとBIGGABUSHの使い分けは? その名前や、スタイルに関してコンセプトはそれぞれにあるの?

LIGHTNING HEADはBIGGABUSHよりも明確な方向性がある。例えばLIGHTNING HEADは、おもにラテンやレゲエのスタイルに影響を受け、バトゥカーダの良さも取り入れたパーティ・ミュージックなんだ。SOUL
JAZZ RECORDSからの『DYNAMITE!』シリーズに凄く影響された。短くて、生々しいヴァイブのキャッチーでポップな曲が集められているからね。それが所謂ライトニング・ヘッドなんだ。一方ビガブッシュは、それ以外の音楽的パーソナリティで、なんでもありなんだよ。だから、ダブやアンビエント音楽、ブレイクスやヒップホップの要素や、プログレみたいな実験的なものまであるんだ。
『BIGGABUSH FREE』
■『BIGGABUSH FREE』のタイトルの意味するもの、コンセプトを教えて下さい。

自分の音楽的過去(すなわちROCKERS HI-FI)から自由になったということと、自分のやり方を見極め、そこから旅立とうとすることを意味している。ありきたりの手法や癖を見極めるようにして、いったんそれが分かると、それを自動的に使うんじゃなくてわざと避けるようにした。曲を書く多くの人が、失われたコードを本質的に捜していると思う。新しい曲を一編書くたびに、みんなが同じ音楽的問題に躓き、それをを解こうとしている。これが独自のサウンドやスタイルになっているんだと思う。小さなこだわりだけど、これが僕が『BIGGABUSH
FREE』でやろうとしたことなんだ。「小さな」と言ったのは、すべてを捨てきれなかったから。どうしたらそんなことができる? それは作品内容と、自分のアイデアを発展させるように美学を満たすこととのバランスを追求するようなもの。またそれは個人的な自由でもあり、自分自身をさらけ出すことへの恐怖心から自らを解き放つことでもある。それは音楽的なことに限ったものではないよね。
■どういう基準で選曲し、曲順を決めましたか?

何曲か古い曲もあったんだ。「MICHAELANGELO」は94年にできた。いくつかの曲は僕が全体にチルアウトなアルバムを作りたくて、01年に作り始めた。「IOTK」「SOLE
SISTER」はそう。そして、それらの曲を好きだと言ってくれていたレーベル、STEREO DELUXEに送ったんだ、そしたら「いつリリースしようか?」ってきたから、「いやいやちょっと待って、新しいのも作りたいから」って。それで、03年の中頃に6ヵ月かけて「THROWDOWN」「BIGGA
BEATBOX」「FRESH PRANA」「SELF-JUDGEMENT」なんかを書いたんだ。曲順に関しては、何人かの友達に完成したトラックを送った。その中のひとりがいいアイデアをくれたんだ。「OUTERNATIONAL
ANTHEM」から始めたいとは思っていた。スタートにいいと思ったし、これは91年頃、初めてデジタル機材を手に入れたときに作リ始めていた、最初のダンス・トラックだったしね。この曲は00年に作業を再開して完成した。それで、「SELF-JUDGEMENT」も、それにふさわしいと思ったからラストにしたかったんだ。
■アートワークのコンセプトについて教えてください。

個人表現に関して僕が前から言っていることは、どんな風に評価されるか?と恐れることなく、好きなように見て、好きなやり方で、好きな格好をするということ。今回の作品はそれと結びついている。他の人がどう思うかということを恐れて、したいことができないというのは、自分らしくいられないことになってしまうんじゃないだろうかと。それと僕の奥さんが彼女の父親のコレクションであるこの古く素晴らしい星座の本を見つけたんだ。星座の上に神秘的なキャラクターが美しく描かれている本だった。古い本の感じが好きなんだ。ちなみに僕の星座は魚座。
■没になった曲もあるんですか? それはいつか発表されるのでしょうか?

うん、いくつかあるよ。その曲は更にいじろうと思っている。でもその曲たちは他の曲に合わなかった。古い曲でいまだに出来上がっていない「STATIC」という曲もる。FARDA
Pと一緒にやった「GOING OVER」という曲や他にもROCKERS時代に作り始めたもののいまだに完成していないものもあるよ。
■STEREO DELUXEのコンピに収録されていた「THE
BELLS」は、アルバムに入っていても不思議ではない美しい曲だと思います。どうして入れなかったのですか?

あれはNICK BERKELEYという友達と、TRESUREという別プロジェクト向けに書いたんだ。僕がこれまでにやってきたものとはかなり違うサウンドなんだよね。TRESUREの曲はかなり重くて、ゆっくりで、すごい暗い歌詞で、ギター・ソロ(僕の!)が多く、叙事詩的な感じ。一緒に作った曲のうち、これはより自分の曲の感じに近いと思ったし、なにより世に出したかったんだ。
■今回のアルバムの参加者について紹介して下さい。参加者の選考基準は? 特にG.RINAに関して、どうして日本に住む彼女に参加してもらったのか教えて下さい。

G.RINAの曲をリミックスしてほしいという依頼があって、アルバム『サーカスの娘』を貰って曲を選んでいるうちに、この曲と恋に落ちてしまった。それで、彼女とコラボレートしたいと思ったんだ。それで彼女に「SELF-JUDGEMENT」のヴォーカルを使わせてもらえないかとお願いしたんだ。トラックが進展するごとにmp3ファイルを送って、メールのやりとりで、どうしていったらいいかを話し合ったよ。彼女とはこれからも何か一緒にやれたらいいと思っているよ。会えるといいんだけどね、そうしたらミュージシャンらしく一緒に作業ができるから! でも今は地球の反対側に友達がいるような感覚だよ。

SOFIAH THOMは01年のBIG
CHILLで知り合って、すぐに意気投合した親友だよ。彼女はダンス・コースの一員で、演劇の曲を書いていた。何年か前に僕の家で録音したんだ。その直後にアメリカに引っ越してしまって、今はサンフランシスコに住んでいるよ。

JAY REEDSはドーチェスターに住む素晴らしい腕前のスクラッチDJで、彼には(彼が扱い方を知っているもの以外の)音楽技術を教えていたんだ。

PKは一番古くからの友人。僕らが赤ちゃんの頃からの知り合い。このトラックは94年に作ったものだよ。彼は今、彼女のSAMと一緒にJAMES
BEIGEという新しいプロジェクトを始めたんだ。クールでダークでボサノヴァ風な音楽をやってるよ。
リミックス、DJについて
■あなたは多くのリミックスをしていますが、その時に心掛けたりすること、意識することはありますか?

好きでもない曲のリミックスはしないよ。 ROCKERS HI-FIの頃は、使える最小のパーツを選んで、かろうじてリミックスと呼べるものを作っていた。でもそれはオリジナルのアーティストのトラックからほんのわずかな部分が入った、全くROCKERS
HI-FIの曲だった。でももうそのやり方はしない。

リミックスの作業をする時は、“ヴァージョン”以上のものになるように心掛けている。オリジナル・ヴァージョンに僕印のスタンプを押すように。そうでないとしても、僕は単にお金の為だけにやったりはしない。
■DJとしても素敵な選曲をしていると思いますが、自分の曲をかけたりもしますか?

ありがとう! もちろん、そうすることに何の問題もないよ。ROCKERS HI-FIで、こっち面の音楽ビジネスに入りはじめたとき、DJがうぬぼれで自分達の曲をプレイしたりチャートに入れたりするということがあったんだけど――それは全くのまやかしだよね。そうではなくて、自分の作品を誇りに思うことや、人に聴いてほしいと思うことは、決して恥ずかしいことではないはず。人のために曲を作るということができなかったし、自分ためにするべきと思っているし、今のところ、他の人たちが聴いてくれるというのはボーナスみたいな感じだよ。
■コンポーザー/クリエイターとしてのあなたと、DJとしてのあなたは別ですか?

そういうわけでもない。同じ対象に向かって働きかけている――僕が音楽から飛び出して僕と同じ感覚をみんなにも与えたいんだ。
■あなたにとって音楽とは? どうして音楽を作るのですか?

人生で欠くことができないもの、表現の手段、コミュニケーションの手段であり、それなしではいられない何か。やらずにいられなかったし、今までで一番の仕事だった。音楽は僕を世界中の人々に触れされてくれるし、音楽で人々をハッピーにできるかもしれないから。
■音楽にメッセージを込めたりしますか?

かつてFRANK ZAPPAは、人が音楽を作ろうとするのは、アーキテクチャーでダンスをしようとすることに似ていると、彼独特の妥協しない言い方で言った。そこで僕もみんなに、僕の作る音楽から何でもいいから必要とするものを見つけ出してくれるといいなあと思う。僕にとっては、こう言うことが僕の使命のような気がしている:これが僕だ。僕のサウンドでありスタイルである。創造する上で妥協したことはない。僕はただ単に自分にとって正しいと感じることを形にしたんだ。
■ライヴもするようですが、どのような感じになるのですか?

ライヴによって違うね。自分を見せる方法をいくつも持っているので。それに今はライヴ・バンドもいるよ。彼らはLIGHTNING
HEADとBIGGABUSHの両方の曲を演奏できるんだ。
|